「佐藤三治譚」

 

(あるひとりの人生から照らされて)

 

 

 

この灯籠の主人公・佐藤三治は、明治30年(1897910日遠刈田に生まれ、肘折で育ち、木地職人として腕を磨いていました。しかし第一次世界対戦後の不況の余波を受け日本での木地業を断念、新天地を求め、昭和7(1932)318日家族とともに神戸港からサントス丸にてブラジルへと旅立ちました。一家はその年の53日サンパウロ州サントス港に到着、以後約3年はコロノ(農園労働者)として生活します。昭和16(1941)7月パラナ州アカプラーナの大和植民地に土地を買い求めて入植し、コーヒー豆を主作に農園の経営を始めます。

  日本人移民者はコツコツと農業をやり、ブラジルに野菜を食べる習慣を作り、食文化へ影響を及ぼしていきます。また、不毛の地と呼ばれていたブラジル中西部の熱帯サバンナ地帯のセラード開発にも取り組み、本来ならば湿帯性作物大豆やトウモロコシなどの作付けに成功、世界有数の穀倉地帯へと変革させていきます。

  外務省の「海外旅券発行者数」にもとづき、明治18(1885)から明治27(1894)までと、明治32(1899)から昭和47(1972)までの出移民数(記録が無い時期は日清戦争開戦により官約移民が廃止されていたため)を見てみると、東北では青森県2,520人、秋田県3,583人、岩手県3,499人、山形県5,105人、宮城県8,667人、福島県28,479人とあります。一時帰国し長期滞在後に再渡航した人や、旅券を交付されても渡航したとは限らないので正確な数字ではないそうですが、多くの人々が新たな土地へ希望を託し渡って行ったことがわかります。 ひとりひとりがそれぞれの人生を歩んでいった中、三治も昭和17(1942)頃から副業で木地挽きをはじめます。日本のこけしはブラジルでは受け入れられず、ブラジル紫檀などの硬木を使い盆や灰皿など日用品を挽いていたそうです。昭和45(1970)日本万国博覧会を機に一時帰国し、遠刈田や肘折、山谷、及位などを周り、75日にブラジルへ帰国後は祖国の地を踏むことなく90歳過ぎで鬼籍に入られたそうです。

 

佐藤三治作のこけしなどは、作られた数は少ないですが、肘折の鈴木こけし店やほていや商店でその一部に触れる事が出来ます。現地の木材、ブラジル紫檀やマンゴーを使ったものやブラジルの鳥を描いたものなど。三治に纏わる物語が今尚息づいています。

 

 自身の生まれた土地から離れ、新天地を目指すとはどんな感覚だろうか。

 

 神戸にある「海外移住と文化の交流センター 移住ミュージアム」の研究員の方は、それは知識が無かったからだと話します。ブラジル政府と日本政府の思惑は伏せられ、「新天地」「金の生る木」などというイメージに乗っていってしまったかもしれない。現代はどうだろうと見渡してみると、今度は日本へたくさんの外国人が働きに来ています。わたしたちはこの先ずっと国という容れ物に入っているままなのか、その容れ物がぐりんと反転していくのか、ふとそんなことを考えます。大きな器のようなカルデラに息づく肘折温泉。その地を踏む人びとの往来や、こんこんと湧き出る豊かな自然を想いながら、生々流転の物語を描かせて頂きました。

 

第13回灯籠絵展示会「ひじおりの灯」

今年で13回目を迎えるひじおりの灯、今回灯籠絵を描かせていただきました。

8月17日には新作灯籠絵を描いた作家による「肘折絵語り・夜語り」が開催されます。

ぜひいらしてください。

 

2019年7月26日(金)→9月16日(月) 山形県最上郡大蔵村肘折温泉

 

新作灯籠9基は、8月10日から展示いたします。
8月10日~8月25日は湯治部屋にて屋内展示もいたします。

https://hijiorinohi.com/